「風と共に去りぬ」キャラクターについて考える
2015年11月23日
最近投稿のペースが落ちていますが、別に静止しているわけではありませぬ。
「風と共に去りぬ」を観た。
名作スルーの名人と言われる私ですがさすがにこれは観てます。さすがにね。
ですがだいぶ久しぶり。余裕で十年以上。
いや、やっぱいいっすわ。ものすごいエネルギー。
1939年ですよ。凄まじい。
ヴィヴィアン・リー最高。
当時スカーレットのキャスティングは大変のことになっていたみたいですね。モダン・タイムズのポーレット・ゴダードとか名女優キャサリンヘプバーンも候補に挙がっていたようで。
過去にタイムスリップして当時の人に、スカーレット・オハラというキーワードでヴィヴィアンリーの顔を思い浮かべる人がほとんどになるってドヤ顔で語りたい。
さて。
私がいつも気になる芝居についてですが。
芝居は結構大きいというか、舞台的な演劇的な味付けかと思います。ですが中身が伴っているので芝居じみた感じも嫌ではありません。
ちなみに実際の演技指導というか俳優につける演出的な部分には監督を降ろされたはずのジョージ・キューカー(マイフェアレディとかの監督)が最後まで関与していたようです。
不思議な世界ですね。じゃあヴィクター・フレミング監督は何してた?ってことになりますから。
ヴィクターフレミングの手腕なのかジョージキューカーの功績なのかわかりませんがいずれにせよ「風と共に去りぬ」、人間と人間模様を見事に描いていると思うんですね。
スカーレットはもちろん、レットバトラーもメラニーもアシュレーも。マミーも。
理想通りの展開なんかになりはしないさせやしない。オーディエンスが望む方向なんかにいかせやしない。
良い行動悪い行動に関わらずあくまでもその場のその人間が取るであろう行動の選択をさせ、ストーリーが展開していく。
どの人物も人としての方向性が完全に定まっている。ブレも葛藤も揺らぎも人間の中に納まっている。
ここで思うのです。
キャラクター設定なんて考えをしていたんではこういうものすごい人間ドラマはできない、と。
キャラクターってのはあくまでも結果だし。
行動の結果で第三者に客観的に判断されるもの。
必要なのはキャラ設定ではなく、状況と人物としての志向、またはモチベーション。
キャラクターを最初に設定させることは登場人物の行動が初めから決定づけてしまうこと。それによってオーディエンスに展開を容易に予想させてしまう。
展開が予測できるものはふつう考えて面白くないですよね。
志向だけ決めて役としてのモチベーションを本当に演者が持つ、というシンプルな仕組みこそが大事なのだと思います。
わかりづらいかな。まあただの私の考えなので
あ、そうだ。別に映画の感想のブログに映画のワンシーン載せたりしても著作権ひっかからないみたいですね。